「宇宙という現実では、あらゆるものが等しく無意味で無価値である。」という真実があります。それが、ほんとうの意味での「ひとつである」なのです。
世代として植え付けられた疥癬マヤズムでも、子宮の中での発生系統であるエネルギー分離反射としてでも、「分離感」というのはこの宇宙の大原則に反します。そして、この分離感とは「世界に意味がある」「なにかに価値がある」「特別である」ことです。この精神病が悪化すると、自分が特別である、自分の持ち物が大切である、自分の自分の、、、とさらに分離感を悪化(強化)させていきます。人間が特別であるとか、人権がーとか、イルカがーとかもう末期です。付ける薬もありません。
歌によく出てくる「一人じゃない」という歌詞は、分離感で死にそうという悲鳴です。
この何かを特別にすることを仏教では執着と呼んでいますね。その特別である状態をフォーカスし続けるとエネルギーが過剰に注がれて重たくなります。特に苦痛子がより集まるため、重くて暗くて湿っぽい地獄のような痛々しいものを作り出します。
本当にドンファンの呪術師の系譜は世界をよく観察しています。死を枕にするとは、この宇宙の本質を見極めないと口にできません。死は「価値があるもの(=分離しているもの)」をどんどん消していくので、ほんとうの意味でひとつにもどる過程になります。
分離感が強い人間は、このような性質を持つ死を敵視する(=意識の外に追いやる)ので、不死になるのです。
「宇宙という現実では、あらゆるものが等しく無意味で無価値である。」
これを聞いて、悲観したり、虚無に陥ったり、死にたくなるようだと分離感(なにかが特別である)に引っかかっています。まして、怒りが湧き上がるなど論外。また、支配者(神)がいて、それ以外全て無価値というイメージを持つ人がいます。しかし、支配者や神も無価値なのです。在るものを在るがままに観るなら(=正見)、特別なものなど一切ないのです。
(ただし、この文章を無理矢理飲み込まないように。エゴにとって毒薬です。)
真理が残酷に見えるのは「自分が特別だから」です。しかし、本当に無慈悲なのは、あらゆるものに価値があり、値段がついて、それらを比較し、争いと搾取が永遠に終わらない「分離感」の方なのです。昔の偉い人も言ったはずです「汝、人を裁くことなかれ。しからば汝らも裁かれざらん」って。
ニサルガの全否定がどうして悟りにつながるのかというのが、この観点からだと説明が付きますね。あらゆるものの意味を否定し価値を否定できるなら、それは全てと対等であるということです。