「与える」というのは非常に難しい行為の一つです。
困っている人に物や助けをするのは一見正しく見えますし、何かが増えることは単純にうれしいものです。宗教では喜捨、善行を積むとも言われています。
しかし、大原則があります。
・受け手が欲しいと言ったものは、受け手の責任になる。
・受け手が欲しいと言わないものは、送り手の責任になる。
無私(愛)の贈り物、自然や悟り人からの贈り物は紐がついていないため、感謝が自然と起こります。それがたとえ病や死であっても。
エゴ(情)の贈り物は上記の大原則が非常に強く働きます。エゴは不調和を引き起こすので、誰がその責任を取るのかという因果応報の世界。
また、何かを贈るという行為自体、エゴが強くなります。喜捨した自分に増長したり、徳を積んだとうそぶいたり、贈り物で情と縁を無理やし結んだり、支配したり。誰が言ったか忘れましたが「贈り物は脅迫の一種」なのです。
EO氏曰く
どれは誰に与え、どれは誰には与えるべきではないとか、今は、与えるべきであり、今は与えるべきでない、という、そうした『微細な感応能力』が彼らにはないのだ。(反逆の宇宙から)
テーマ「与える」(アストラル体、メンタル体、コーザル体、正中線体、6カルマ、5信用)
物や情報などであっても、与えているものの本体はアストラル体(感情のエネルギー)で、微細な感知能力の正体は正中線のバランス感覚です。