「多様性(ダイバーシティ)」という言葉だけが人口に膾炙していますが、本当にその人が多様性を求めているか判別できると問いがあります。それは
『「多様性は不要、いらない」という主張を受け入れられるか?』
この主張を見て穏やかであるならその人は真の多様性があり、受け入れ難いなら「多様性」と言いたいだけの人です。その主張を受け入れたとしても、この世界から多様性が消えることはないのですから。
多様性は単純に「エネルギーの量が多いこと」に過ぎません。エネルギーがないと受け入れ範囲が狭くなります。エネルギーが少ないほど、攻撃や排除を行いがちです。受容というのは、未知や自分に都合の悪いことをどれだけ受けいられれるのか、と問われることなのです。
多様性を主張する新聞や団体の本心は「自分(エゴ)を受け入れて欲しい。」また、「受け入れているつもり」で終わっている自己満足。エネルギーがない人の多様性はほとんど意味もなく価値もなく、混乱と悲痛な失う恐怖以外何も残しません。LGBTもロヒンギャ難民も何も残らない(残るものがない)と出ます。
今、ヨーロッパには移民が大量に押し寄せていますが、ヨーロッパが移民を受け入れているのではなく、移民がヨーロッパ(特にドイツ)を受け入れているのです。
「愚かさ」や「病気」が73億通りあることが多様性ではありません。それはただのゴミの山です。愚かさと戦う意志の力が多様性のエネルギーであり、その意志の煌めきだけが価値があります。