「望み」とは、コスモス体レベルのエネルギーがあるかないかを眺め観る行為です。存在があるものは形になりますし、存在がないものはどうやっても叶わない。絶望は後者のことですね。まれで珍しい希少な存在を望むことを「希望」というのでしょう。
希望も絶望も実は同じことを指しています。それは「独りで生きていくエネルギーがない」です。先にも書いたとおり、コスモス体のエネルギーが枯渇すると絶望してしまいます。これを死に至る病と表現した哲学者もいますね。希望は自分にエネルギーがないのでそれを欲しがっている状態です。エネルギーが十全な存在には希望は不要なのです。
コスモス体のエネルギーが減少すると「寂しさ」を感じます。存在を感じられないため自らに頼ることができません。「頼れる」のバロメーターの反意語は「自分を罰する」なので、罪悪感に囚われます。(死に至る病の続編が「絶望とは罪である」というのは卓見です。)
寂しさを恐れる衆生が強い存在に惹かれるのは、コスモス体のエネルギーを分けてもらうためです。その対象は、神だったり偉大な指導者だったりアイドルだったり。
このコスモス体のエネルギーは、自分にとっての「子ども」を作ることによって分割することができます。例えば、直接的には出産。間接的には作家が本を作る、作曲作詞する、絵画や彫刻、工芸品、工作など。肉体で表現するダンスそのものは分割ではないのですが、ダンスの流れやそれを映像に残したりする過程は子どもに当たります。創作的な活動以外でも仕事や日々の食事など成果物が残るものは、全て存在のエネルギーの分け御霊なのです。
当然、このエネルギーも無限ではないので、無駄なものを作り続けると枯渇します。意志に基づいて創作をする場合は問題が起きないのですが、エゴで製作を続けると「虚しさ」を覚えます。「なんでこんなことやってんだろう?」とふとよぎるなら、それはエネルギーの無駄遣いをしています。虚しさとは軽い絶望という名の病なのです。
また、エゴが妄想に存在のエネルギーを注ぎ込むと、それは全て形になります。目に見える形でゴミになるものもありますけど、目に見えない形で「澱」として、地球を汚しているものも多くあります。
テーマ「寂しさと虚しさ」
コスモス体レベルのエネルギーの枯渇。また、無駄遣いを調べる。