悟り人が「無とは虚無とは虚空とは」を説明するとき、無に飲み込まれる根源的恐怖を指摘することが多いです。(多くなってきた?)
それを、漫画で表現した人がいます。
なぜ、この「コメディ」に恐怖や絶望感を感じるかというと、自分(=外と自らを分けているもの)が、「無限(=外)」に飲み込まれるからです。
私はたったひとつの確実な大悟者の判定方法を知っている。
それは、無制限の隔離実験である。
いつ出られるという保証のない数年の歳月、完全な暗黒の部屋に閉じ込めて、そこで発狂しなかった場合にしか、私はその者を大悟者とは認めない。
なぜならば、無限の無との対面に耐え得るたったひとつの意識が本当の大悟だからである。
それは生きるためのものではなく、死ぬためのものでもない。
幽閉に耐え得る、たったひとつの正気である。
それは意識運動が停止したまま、なおも、在ることである。
(廃墟のブッダたちから)
テーマ「永遠恐怖症」(ゼプトン体、イーシュヴァラ体、ニルヴァーナ体、コスモス体、コーザル体、メンタル体、アストラル体、エーテル体)
永遠(≒ほぼ無限大かと思われるエネルギー)と対面するには、実はすべての身体のエネルギーが充実していなければなりません。充実なきまま深淵を覗き込むと、発狂するか廃人になります。
なので、方針は簡単。エネルギーが不足なら、エネルギーを補充しつつこちら側に戻す。エネルギーが充分なら無限に突き落とす(勝手に堕ちる)です。
個人的なことですが、子供の頃、私は手塚治虫の「火の鳥」の永遠が怖かったです。今読みかえすと、永遠の絶望感が半端ないです。