カール・マルクス生誕200周年ということで世界的にブームになっているようですが、そんなものにすがらずに強く生きていきましょう。
「神は死んだ」と昔の偉い人は言いましたが、神と聖書を捨てマルクスと資本論に鞍替えした人たちは、150年と経たずにマルクス神が死ぬとは思わなかったことでしょう。そろそろ、FGOに英霊として登場しないでしょうか。女性化しなくていいですけど。
資本論は経世済民理論の一つにすぎません。この時期、世界各地で新しい理論が花咲きましたが(安藤昌益など)、マルクスだけが残りました。それは経済理論が優れていたわけではなく、ひとえに暴力革命を肯定したからです。荒霊を許したという点で私の中ではマルクスと尾崎豊は等価値だったりします。言うまでもなくマルクスはフリーメイソンに愛されました。「ブルジョアジーである自分を倒せ」という主張は「滅びたい」というエゴと同通するからです。
以前、しくじり先生でマルクスを取り上げていましたが、彼の最大のしくじりは「生命は平等である」という点を見過ごしたことです。プロレタリアートもブルジョアジーも同じ生命なのです。仏教をかじった事があればこんな初歩的なミスはしなかったのではと思います。
共産主義の本当の成功とは、利益や意見の違う人たちと地味に気長く対話をし、妥協点を詰めていくかにあります。それは、競争や搾取(資本主義)とは違う社会の有り様ができたはずですが、まぁそこまで至らず。こういうのはポリネシアのような狭い島社会だと割と簡単なのですけど、純粋大陸国家のソ連とか中国だと抑圧や虐殺になってしまうのです。忍耐力がないからね、仕方ないね。
生命の平等はお金の平等に、隣人への愛は暴力に。これらが新しい宗教になり世界中の人達に広まっていったということが末法極まっていると言えます。分割自我も限界に達し、肉体以外の身体を認識できなくなっているのがちょうどこの頃からなのも、原因の一つかもしれません。