以前、ノンデュアリティはなんかおかしいというブログを書きましたが、そもそもの二元論とは何かを。
「われ(我れ)」があって「あれ(宇宙)」があるのが、二元です。視点の位置は当然我れにあり、内と外の対応になります。外の世界から手に入れ、不要なものを外の世界に手放す仕組みに巻き込まれます。 エゴは「欲しい」と「手に入った」の単純な反応を繰り返します。そのための戦いがいつまでも終わりません。
また、自分と他人という分離をし、我れを外の宇宙にプロジェクターのように投影します。分離しているがゆえに自他の分離が難しく、車輪の右と左のように分けがたくなります。
「悟りとは非二元」であるとアドヴァイタやノンデュアリティでは定義していますが二元ではないとはどういうことでしょうか?それは俯瞰的視点に移行し、三元目の視点になったのです。それならば、トライプリティ(triplity)と表現するのが正解かと。三元的視点になると「われ」と「あれ」を同時に見れる第三者になるので、そこの依存性から離れられます。というか、離れられるだけのエネルギーが在るから二重性から脱却できたというのが正順。
ちなみに、この時点ではまだ「小悟」です。この三元もまた俯瞰が可能で、四元(中悟)、五元(大悟)と視点の場所を移動していくことができます。さとりきねしとの対応はこんな塩梅。
三元性=4次元
四元性=5次元
五元性=6次元
ノンデュアリティがもし特定の悟りの領域に達しているなら、それは、トライプリティやクアドルプリティ(quadruplity)やクインタプリティ(quintuplity)などの名称を取るべきでしょう。
そして、「私は存在しない」というならそれはノンデュアリティではなく、ノン-クアドルプリティになるはずです。ですが、実際は二元を否定しているだけの状態なので「否二元 (nay-duality)」が名称としては限りなく近いかと。
三元的視点になるとエゴから離れることができます。しかし、エゴが力を持たなくなるだけで、消えるわけではありません。六元的視点になると「存在」から離れることができますが、それもまた消えるわけではないのです。まず、この辺にエラーがあります。また、7次元(六元)まで達すると地球上で一個人の肉体をまず維持できません。突っ込みどころが多すぎです。
悟り人は「二元にとらわれるな」と語りましたが、そこに執着(対象化)すると「非二元」という妄想世界ができあがるといういい例かもしれません。