さとりきねしブログ

当サロンは、キネシオロジーによる多層多次元の身体への癒やしを提供します。

「不死者」の弊害

 セッション中に強い質問が出たので、ブログに転載。

 

>月闇さんが言っているから問題なんだろうと考えて、
> 面倒くさくて聞かなかったのですが、
> 何故、不死、私は死なない、未来永劫生き続けるとか思うのが駄目なのでしょうか?

----

2-15.「不死者」

 人間はいずれ死ぬ存在だ。呪術師たちは固く信じている。われわれの世界と、そこでわれわれがすることとを理解する唯一の方法は、自分たちが死にゆく存在であることを完全に受け入れることだ、とな。これを根本的に受けいれないかぎり、われわれの生活も、行為も、そしてわれわれが住んでいる世界も、いっこうに手に負えるものとはならん。

 しかし、ただ受け入れるだけでは目的を達成したことにはならん。受け入れたことを行動で示し、それを守り通さねばならんのだ。どの時代の呪術師も、自分の死についての考えこそが、この世でもっとも真摯な考えなのだと言っている。

 われわれ人間の過ちは、しかも太古以来ずっとつづいてきた過ちは、多くの言葉で語られることはなかったが、自分たちが不死の領域に歩み行ったと信じていることだ。われわれは、決して死ぬことがないようにふるまっている。子供じみた傲慢というほかない。

 だが、この不死の感覚よりもさらに有害なのは、それと一緒に生じるもの、すなわち、この想像を絶する宇宙をわれわれの精神で包含できるという感覚なのだ。

 機械は、人間が避けられない約束を直視するのに手を貸すことはできん。その約束とは、無限との約束のことだ。

 カスタネダ無限の本質」から

----

> 何故、不死、私は死なない、未来永劫生き続けるとか思うのが駄目なのでしょうか?

 死なないというのが認識の錯誤で、事実ではないからです。死だけは平等、とどこかの誰かが言っていましたが、今日、自分が死なない、と言い切る理由がないです。病気、事故、災害など。当たり前ですが、いつかは死にます。

 これは人間だけでなく、神も、地球も、宇宙もいつか死にます。sdmssは言いました。海は死にます、山も死にます、春も、秋も、愛も、心も、私の大切な故郷もみんな逝ってしまうのです。

 

 こういう認識に陥っている時、エゴが強い停滞に陥っている証拠です。なので、こうなると何が困るのか?何がだめなのか?の質問と考えればいいかと。

 

 エゴが成長も縮小もしない時、ドンファンが指摘している通り、幼い万能感が発生します。そして、どーでもいい、つまらないことばかりに時間と貴重なエネルギーを費やします。

 

 メメント・モリラテン語で「自分が必ず死ぬことを忘れるな」は、人生の余計なことを削ぎ落とします。

 ・3年後確実に死ぬとしたら、何をするか?

 ○○さまは、もし、余命3年と言われたら、心残りがないように何をしたいと思いますか?あと、今やっている悪習のうち、何を止めますか?

看護師が語った、死の直前に誰もが口にする「後悔のことば」 | TABI LABO

・1年後確実に死ぬとしたら、何をするか?

 1年後だったらどうでしょうか。1年後に死ぬまでやっておかないと後悔することはないでしょうか?

・1ヶ月後確実に死ぬとしたら、何をするか?

・明日後確実に死ぬとしたら、何をするか?

・1時間後確実に死ぬとしたら、何をするか?

・10分後確実に死ぬとしたら、何をするか?

 交通事故で車に挟まって、あと10分しか持たないと救急隊員に言われた人は家族に電話したそうです。

 「100日後に死ぬワニ」はいいモチーフでしたが、ワニに覚悟があったら、あんなにほのぼのとした話にはならなかったはずです。どうでもいいことに悩んでいるその愚かしさのギャップが味わい深いのです。これの反対の作品が黒澤監督の「生きる」でしょうか。

f:id:satorikinesi:20210317092341j:plain

 で、これを「今、死ぬなら」まで昇華すると「覚悟」になります。葉隠で「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と綴られていますが、これが覚悟そのものなわけで。

----

s-15.覚悟

 非情への気づき。

・常に死を見つめる、明日死ぬかもしれないという前提での決断。
・何が起こるかわからない。
・すべてを捨て去ること。

s-16.死ぬ覚悟を意識して、待つ

 ドン・ファン「待つということを知り、何を待つのか」ということを知る人はほとんどいない。今、死ぬ覚悟をしてしまえば、何も恐いものなどなくなる。

 覚悟というのは付け焼刃ではなく、普段から何事においても意識していないと、いざという時に稼働しない。

 地球が破滅しようがどうしようが、死ぬのはあなた一人だけ、それ以外にない。他の方たちはまた他の方たちの死がそれぞれあるが、それはあなたとは関係ない。

 待つということを知るということは、安穏と待つということではなく、何を待っているか知っていて、強迫観念なしに嬉々としてやるべきことをやり、再び来るであろうその時を待てばいい。そうすれば、自ずとどうすればいいかがわかる。

i-2.世界平和の祈り

 例えエゴにまみれていても、とんでもない天邪鬼であっても、救いようのない極悪人であったとしても、五井先生に連なる世界平和の祈りを唱えることが出来る方は、その身そのままで救われている。

 「命を懸けた選択」というもの、つまり死ぬか生きるかという時に、あなたはその祈りを選択できるかということ。世界平和の祈りは五井先生への、仏陀への、地球への、あるいは私たちを精緻に導いてくさる大いなる存在への素直な愛がなければ、それはただの言葉の羅列にしか過ぎない。

 素直な愛があるときに、どうして「私はこちらの方がよい」「この方が利きそう」などといえるのか?そこにはエゴの増長しかなく、覚悟のない屁理屈のような祈りを唱えているだけ。

 その祈りを私たちのエゴが判断する限りは、どこまでも理解できない「そんな祈りがなんになるのか」という理解しか得られないようになっていますが、五井昌久という存在にスッと素直に入っていける方にとっては、形(力やお金、地位や名誉、美醜もそうですが)しか見えない世界、弱肉強食の世界、後生大事に自尊心だけを握り締めている世界などからの脱出するためのメソッドとエネルギーが手に入れられるチャンスになるのです。

--

e-70.死んで楽になりたい、死んでこの苦しみから逃れたい

 死んで楽になりたい、死んでこの苦しみから逃れたいと望むことは、死ぬ覚悟を持つこととは正反対のスピリッツ。死ぬことでご自分のカルマや負うべき責任を放棄したいと願うのは、エゴの最たるもの。

----

 んー、ここまで書きましたが、実際に生きていく上で計画性まで放棄しろというわけではありません。例えば、二輪免許を取るにも4ヶ月ほどかかったわけですし、お金を貯めたり、植物を育てたりにも時間がかかります。

 なのですが、その遂行途中で死んでも悔いがなければ、と。そのへんが目安になるはずです。

----
 話をもとに戻します。

 なので、死なない、未来永劫生き続ける、と夜迷い事を言っているうちに、何も出来ずに何も成さずに死にます。これが問題でしょうか。

「ああ、やっぱり今回も駄目だったよ」(by エル・シャダイ)

 

ps.

 「死ぬ覚悟」は、さとりきねしの最初期から貫いているものですね。なので、何度も同じような文章を書いているような気がする(^-^;

 

さとりきねしセッション申し込み

にほんブログ村[ヒーリング] にほんブログ村[キネシオロジー] にほんブログ村[さとり]
人気ブログランキング[癒し・ヒーリング] 人気ブログランキング[キネシオロジー]